ポール・ウェラーがツアー滞在先のニューヨークで
New York Daily Newsのオンラインインタビューを受けました。
簡単に訳してみました!(インタビュー以外は略訳です)
(元記事はこちらをクリック)
以下が記事の訳文です。(間違っていたらすみません)
多くのミュージシャンは歳をとるにつれて、感性が狭まっていくがウェラーは違う。
55歳になった彼は、今まで以上により広い感性でより挑戦的な人間となった。
「俺と同じ年代の人間は、80年代で音楽に興味なんて持たなくなってるんだ。
自分の知っていることが全てで、それで満足してしまうんだよ。
でも、俺の考えは幅広い。そして、学ぶことを続けたいんだよ。」
『Sonik Kicks』では、その言葉のとおり60年代サイケ、シド・バレットやトラフィック、
ドイツの実験的音楽、ジャマイカン・ダブ、フラメンコ、ジャズに加えて
70年代のクラウトロックのテイストも表現している。
「22Dreamsを出したときに、レビューに”NEU”(70年代ドイツのプログレバンド)を彷彿とさせる
って書いてあったんだ。実はそれまで彼らのことは知らなかった。それで聞いてみたら、
気にいったんだ。まるで少年時代に体験したような出来事だったよ。ラジオでバンドを知って
そのバンドを聞いてみるっていうね。」
ウェラーが音楽に系統するきっかけは、60年代の英国モッズムーブメントである。
それは当時、幼かった彼にはムーブメントとして早すぎた。
彼はザ・ジャムでその思いのたけを見せつけ、モッズのアイコンにもなった。
ザ・ジャムはピストルズやクラッシュなど今までの音楽を全てぶち壊すという
ブリディッシュパンクとは違い、モッズのパンクバンドという、少し奇妙な立場だった。
しかし、そのモッズへの熱い思いは、彼らの評判を下げることは決してなかった。
「俺はつねにモッズに関する全てのことと一緒にいるのさ。モッズは戦後の労働者階級に
深く根付いた文化なんだよ。それは今でも続いてる。15,16歳の子供達が夢中になってるんだよ
ある意味、柔軟な文化だね。」
そんな彼は80年代にザ・ジャムを解散し、スタイル・カウンシルを結成した。
「ザ・ジャムのファンにとってはつらいことだったかもsな。でも、18歳からジャムを
やってきて、自分が他にどんなことができるかっていうのを確かめたかったんだ。」
スタイル・カウンシルはジャムよりはアメリカで成功したものの、
それほど大きな反響はない。それは彼が故郷を愛しているからかもしれない。
「19歳でアメリカに来たとき、レコード会社関係者が言ったんだ。
”アメリカで成功したいなら移住して、ここで演奏をしなきゃダメだ”って。
俺はそんなことしたくなかった。ロンドンが大好きだからね。
しかも、その時にアメリカのラジオを聴いたけど、ジャムなんてかけてくれそうになかったよ。」
92年にソロデビューした後は、どのCDもイギリスで大ヒット。ブリットポップムーブメントの
立役者となり、オアシスやブラーなどからも慕われ、モッドファーザーとも呼ばれ、
近年でも、激しいロックスタイルの『As in Now』や実験的な内容の『22Dreams』、『Sonik Kicks』
など幅広い音楽に取り組んでいる。
「音楽を演奏するのはライフワークだからね。一生もんだよ。
それを続けていくには、常に自分に磨きをかけていかなくてはね。
そして、音楽でどんなことができるのかを把握してないとダメだね。」
終わり